水村美苗『私小説―from left to right』

私小説―from left to right (ちくま文庫)

私小説―from left to right (ちくま文庫)

  • 作者:水村 美苗
  • 発売日: 2009/03/10
  • メディア: 文庫
 

大雪の夜の久遠に人の不幸が亡霊のように記憶に蘇る。

私小説―from left to right』は冬の寒い夜、カーテンの締め切った部屋、読書灯の黄色っぽい明かりで読みたい小説である。そのように個人的な場所で個人的に読んだ時、読む喜びが増大するのはもちろんこの小説だけではないだろうが、しかしこれは確かにそのような小説の最たるものの一つだ。

loneliness is the very condition of a writer.

私小説」とはおもしろいジャンルで、海外から輸入された文学というものが日本で幾分か勘違いされ独自発展したもの、であることは有名だが、その近代文学は、『私小説』の語り手にとっての「日本」の表象となっている。この大きな転倒を背景にしつつ、“Exodus”周辺の問題を、個人的に見えながら普遍的な問題を、見事に描き出している。といったように、この小説を批評しなければならないとすれば、姉妹の“Exodus”経験を中心に、ナショナリズム意識とか、言語、西洋/東洋、白人/その他、といったことを考えなければならないのだろうが、しかし冬の寒い夜に密やかに読んでいると、語り手の大学院生のdepressionに共感しつつ、姉や、様々な肌の色、出自、能力の登場人物たちの細やかな、そして個人的な描写の数々が心に染みる。そしてまた、先に挙げた普遍的な問題というものたちが、まずは個人的な問題として生じるのだ、ということに気づかされる。思い出として語られるそれらは、Virginia Woolfの『灯台へ』を彷彿とさせる、今はなきものへのレクイエムだ。「私小説」といえども小説である以上フィクションであるはずなのだが、語り手の心理描写の巧みさは、作者・水村美苗の確かな読書数のみならず、実際の経験あってこそ、といった感じがする。

さて、今は便利な時代である。語り手である水村美苗の感じたような、英語を話す自分と日本語を話す自分の間にあった溝は、今なお存在するかもしれないが、しかし作者・水村美苗の通った、そしておそらく語り手・水村美苗も通ったイェール大学、と検索窓に打ち込めばグーグルがすぐに画像を見せてくれる。「Yale Cabaret」と打ち込めば、おそらくその向かいにあるのが、小説の舞台となっているアパートメントだろう。その画像を想像の縁にしつつ、再び一から読み直してしまった。冬が来て、何日か引きこもる日が続く度に読み返したくなる、そういう小説である。

追記:
後輩がサークルで発表した『私小説』論に、「美苗は象徴的に奈苗=母を殺している」というものがあった。これは斎藤環母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか』を前提にしたものだが、しかし美苗が殺しているのは双子(ではないが)の片割れ、可能性としてありえた、英語を選択する自身であるような気がする。美苗/水村美苗は、『私小説』以後、英語交じりの小説を書かない。これは『私小説』が英語から始まり、英語で生きていくであろう奈苗を「殺」し、そして日本語で終わる、という構造と一致しているだろう。『私小説』は水村美苗が日本語を選択する過程の小説である。作中の教授の「whatever you do, try not to mix up your Japanese with English.」と言うのに従って、日本語で書くと選択した時、彼女は英語を殺すのだ。しかし、「日本人」でも「アメリカ人」でもない彼女の日本行きは、また新たな「Exodus」であることは間違いない。「私は自分の日本での人生を「私小説」のようにしがらみの中で始めたくはなかった。」と言うように、彼女はそれを、『私小説』の後で、一から始める。