祖父の死に関する覚書

投稿の割合が減っているのは良い傾向ですね。なんせ受験生なので。勉強しなければなりません。しかし、ここ数日の感情を忘れたくなく、書いておきます(五月十九日)。

ここ数日は非常に心地よい天気が続いておりましたが、本日は雨が降りましたね。実は父方の祖父が先日亡くなり、一昨日田舎に帰りまして、昨日はお葬式があり、本日こっちに戻ってきたのですが、「空もじいちゃんの死に涙を流してくれているんだなぁ」と安いことを考えたりもしたものです。

祖父の先が長くないということは実は二週間ほど前に知りました。その数日前には母方の祖父も危ないという電話があり非常にショックだったのですが、とにかく連休を利用して田舎、鹿児島に帰ったのです。母方の祖父は衰弱していて起き上がることもできない状態だったのですが、父方の祖父は病院から実家に帰ってきており、快活に会話をかわすこともできたのです。「足さえ動けば元気なのに」と水がたまってむくんだ足をさすりながら言っていまして、僕も先が短いということを忘れ、次の日に病院に戻ったのですが、「もう少しは生きていられるのではないか」と思ったものです。別れる時も、しっかり握手して、また夏に会おうと言ったほどです。

しかし十六日の朝、祖父が死んだという電話がありまして。実感はまったくわかず、学校を忌引きして再び鹿児島へ。祖父の遺体を見ても、立派な斎場を見ても遺影を見ても、まったく実感はわかず。仏教式の御葬式で、遺体のまわりに花を添える段階になって、親戚のおじいさんが祖父の側で祖父の名前を呼んだとき、僕は泣きました。信じがたいことですが、僕は本当に死んだのが誰かわからないでいて、そのおじいさんが祖父の名前を呼んでようやく、死んだのが僕のじいちゃんであると実感できたのです。御経を聞いて「私の方が上手く読める」遺影を見て「背景の色がよくない」「まっすぐこっちむけ」と言った金髪ギャルの従姉も、ひょうきんな叔父さんも九十歳ほどのおばあさんも泣いていました。たくさんの人に囲まれて、我が祖父ながら本当に大きな人物だったのだと思いました。

その日は祖父の実家に泊まり。仏間に飾りたてられた祖父の遺影と骨壷。それでも、連休の時と同じように襖を開けてじいちゃんが入ってきて「寒くないの」「ゆっくりしときなさい」と言ってくれるんじゃないかって。障子のむこうでラジオを流しながら寝てるじゃないか、居間で足をさすってるんじゃないかそう思えて、結局たくさんの後悔にのまれてしまいました。二週間前、連休の時でさえ、もっといっしょにいれたのに、僕は一人で携帯をいじったりしてて、その時襖を開けて入ってきたじいちゃんは僕の心配をしてくれて。あまりにいつものじいちゃんだったから、もう会えなくなってしまうなんてぜんぜん思えないで、病院でも、もう一度くらい会えると思ってて、死んでしまったんです。

移動中。人間の命のとてつもない重さについて考えていました。なんだかんだ言っても、動物の命の重さとは比べ物にならないくらい、人間の命は重くなっている。それは、人間が心を持っていて、記憶力が高くて、文字を使え、社会を築くから。一人の人間が死ぬと、その親類、関係者の多くが悲しみ涙を流す。人間が十人死ねば、千人が悲しみにくれる。

祖父の死を聞いてから思い出したのは津島佑子『火の山‐山猿記』で死に際の桜子が記したノート。今再度読み返したが悔しいまでに圧倒的であった。

書いてて息苦しくなってしまいました。ただでさえ文章が下手なのに良くしようと思うことさえしなかったので、まったくまとまらない文章になりましたね。親しい人間の死というものは、物心ついてから初めてで、その圧倒的な重さを初めて実感できました。どうも、生まれかわった気さえします。今まで読んできた人間の死ぬ小説、そのすべてが今読みかえせばまったく違うふうに読めるのではないか、と思います。