寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

 

■第一章 書を捨てよ、町へ出よう

痛快で好きな文章ではあるが中身としては、おもしろい見方もあるが、しょうもないことも書いているなぁと思った。僕は若くして保守的な人間になってしまったようだ。常識を破る存在が眩しく恨めしいのである。

また、そもそも文化的な背景を共有していないというのもある。村上春樹、よりは10年ほど先に生まれているようであるが、彼の文章と同様「学生運動」「クラブ」「ジャズ」等という単語の象徴するものが僕には伝わらない――知識としては知っているが、心から理解するのはどうしても厳しい。テンポの良い文章の痛快さやこれが常識への鋭い切り込みであったことは十二分に伝わってくるが、とにかく古さが気になった。しょうがないのではあるが。

「住んでる世界」が違う。彼の住んでいた世界は実に典型的な「昭和」なのであるが、僕は残念なことにすっきりしてしまった「平成」に生きているのである。彼の生きたのは「性的時代」であったようだが、少なくとも僕のまわりには、残念ながらそのような気配はない。評判ほどおもしろく感じなかった所以は、おそらくこんなところだろう。

“「唯一の正常な性行為は、はっきりと子供を生むことにむけられた性である」とトルストイはいっている。 …… 「避妊具を用いる者は、妻をなぐる変態男や、強姦して妊ませてしまう狼男よりも異常だ」(C・ウイルスン)ということになるのである。”
本文からの引用。「性的時代」に生きていたらしい寺山修司はこういった思想を、「母さんはぼくと寝たがらないが」という実に背徳的なところで批判的に取り上げているのだが、ぶっちゃけ僕はトルストイやC・ウイルスン(誰?)と意見を同じくしている。僕はつぐづくかたい人間であるようだ。

“「それがもしも、スクリーンの中の出来事だったら、片桐はスティーブ・マックィーンなみの共鳴を得られた」”
これも文中からの引用であるが、案外この発想は持っていなかった。これにはなるほど確かにと思うしかない。寺山修司のこの指摘は「まさに今日」のニュースにもむけられている。

■第二章 きみもヤクザになれる

バブル感溢れている。というか、少なくとも未だお子様である僕には踏み込めない世界のお話だ。果たして僕の将来は、かくもくたびれた退廃的なものになるのであろうか。

いつの間にか“煽動”されている自分がいる。というのも昨今、イライラさせられる事件が多いのである。しかし風の前の塵に等しき僕がいる。社会が行く手を遮り老人が肉を奪っていく。そうやって若者はぐれるのであろう。

■第三章 ハイティーン詩集

狂気との狭間、狂気を心に飼う者たちの詩である。ちなみにこういった詩たちは、あまり僕の趣味に合うものではない。理解できないからだ。僕の好きな詩というのは透明な美しさを持つもの。こういった、自己陶酔的な感のある退廃的な詩は好きではない。すごいとは思うが。

■第四章 不良少年入門

ここまで読み進めるとかなりはっきりしてくるのだが、彼の主張は一貫して“一点豪華主義”すなわち安定指向批判である。これにはそれなりに同意もできる。「安定を求めることは本能だがそれは敵かもしれない。」というのは朝霧氏の迷言である。朝霧氏に言わせれば均質な大衆は憎むべき敵だ。僕らは常に大衆の外側に向かって走らねばならない。

“「人類は道具とともに発展してきて、機械とともに滅亡してゆくだろう」と中学校の生物の先生がいった。”
素晴らしい先生がいたものだ。「人間が働く必要のなくなる技術が発明されれば人類は平等に滅びることができると思うよ。」というのは、やはり朝霧氏の迷言である。朝霧氏に言わせれば「進歩」の果ては滅亡なのである。

自殺は若者の心をつかむものであるようだ、寺山修司の挙げている藤村操しかり、『若きウェルテルの悩み』しかり、彼らは自殺ブームを創出した。しかし、寺山修司は“ノイローゼで首を吊った、というのは病死だし、生活苦と貧乏に追いつめられてガス管をくわえて死んだのは<政治的他殺>である”と記している。現代日本、「自殺ブーム」と呼べるほどの自殺者数の膨大さが問題となっているが、寺山修司に言わせれば彼らは病気に殺され政治に殺された者たちなのだ。それは例えば太宰治や三島由紀雄たちのそれのような、寺山修司曰く「美しい自殺」ではなく、“他殺”なのである。