究極のローカルとは——小松理虔『地方を生きる』

 

究極のローカルとは、自分の人生だ。

 『地方を生きる』のあとがきにこう記した筆者自身「うお、そうか、まじか、と怯んで」いるが、読者の私も怯んだ。ここまで、筆者の経験と悩みと思考を追ってきた私(読者)には、これ以上のことは言い得ない究極の一文だと感じられたからだ。筆者がここまで書いてきたことは、この一文以外にはたどり着き得ない。「地方」において活動し続け考え続けた筆者の偉大な到達だと思う。

 

 ローカルとは、第一章で「いま、あなたが住んでいる地域」と定義される。(東京に対する)「田舎」のイメージの強い「地方」の言い直しである。本書のタイトルでもある「地方を生きる」とは、その「いま、住んでいる」地域を生きることである。であれば、究極のローカルが「自分の人生」であるとき、「地方を生きる」とは、「自分の人生を生きる」ことに他ならない。

 

 「地方を生きる」ことは「自分の人生を生きる」ことだ、なんてことになると、薄っぺらい自分探し言説に見えてこないこともないが、しかし、この結論には、必然性がある。

 

 たとえば、筆者が障害福祉に関わる中でたどり着いた、「やるコミュニティ」と「いるコミュニティ」という考え方*1。本文を簡単にまとめれば、前者は「目的」や「成果」のための、「目的遂行型」のコミュニティで、世間にはこのようなコミュニティばかりであると筆者は述べる。対して後者の「いるコミュニティ」とは、なにかをしてもいいししなくてもいい、ただその人がいることを受け入れるコミュニティであるという。そうしたコミュニティを地域に作れないか、と筆者は提言するわけだが、そのような、個人の存在を前提にするコミュニティは、「全体」で一つの目的(無論、本書ではたとえば「復興」という目的が挙げられる)に向かって「やるコミュニティ」に対して、「個」を重視する態度であると言えそうだ。

 

 また、ローカルという語がコロナ禍と交わるとき、その語がリモートの対義語であることが浮かび上がってくる。筆者はこのように書いている。

コロナ禍では、オンラインの環境を使っていろいろなことを行う「リモートなんとか」が増えました。この「リモート」とは、もともとはITの分野で使われていた言葉です。回線の向こう側にある別の機器を「リモートコンピュータ」とか「リモート端末」と呼び、外部の別の機器と対比して、目の前のある特定の機器自身のことを「ローカルコンピュータ」とか「ローカル端末」と言って区別してきました。わかりやすく区別すると、「リモート」とは「遠隔・オンライン・向こう側」を指しますが、「ローカル」とは、「現場・対面・こちら側」を指す。

 コロナ禍において生じた「リモート」が、地元・地方=ローカルの「現場・対面・こちら側」性に光を当てる。「地方を生きる」とは、「現場」を、そして「対面」を生きるということでもあるわけだ。そこには、相手がいるのである。

 

 そのように「地方を生きる」ことを考え続けていれば、必然的に、ローカルと個人が本質のところで結びついてくる。そして、リモートの対義語として捉えたときに見えてくる「対面」性から考えてみると、この個人=「自分」とは、誰か一人の人間だけで成立するようなものではないということに気づかされる。筆者が「共事」という概念を用いて考えようとしているのは、おそらく、そのことだ。彼は「当事/当事者」に対しての概念である「共事/共事者」を、東浩紀の言う「観光客」的に(『ゲンロン0 観光客の哲学』)、当事者でも専門家でもなく個人の興味・関心をもって物事と関わる、「事を共にしてはいる」ような在り方であると説明している。そのような概念を踏まえて「自分の人生」を考えてみると、それは誰か一人の当事者のものではなく、否応にも「共事者」のものだ。どうしたって、誰かは誰かの「自分の人生」に関わってしまうし、また関わられてしまうのだ。

 

 「地方を生きる」ことは「自分の人生を生きる」こと……これが薄っぺらく見えないのは、筆者自身の「自分の人生」の経験と、そこから導かれる実践的なライフハックが書かれているからだろう。小松理虔の文章の面白さは、そこにあると思う。たとえば就職したものの面白さを感じられずに辞めて海外に行ってみたり、いわばほとんどなりゆきで結婚を決めてしまったり、そして震災やコロナ禍において、行動し、悩む。その筆者自身の悩みが、遠目にはあまり一般的ではない彼の経歴とは裏腹に、言ってしまえば卑近なものであったりする。そこをおそらくはリアルに書き、そしてそこから思考するからこそ、たとえば「面白がる」とか「晴耕雨読2.0」とか「二枚目の名刺」とか「ポジティブな公私混同」とかいった、ほとんど考え方に過ぎない、しかし極めて実践的なライフハックが出てくるのだ。だから、次のような励ましも、決して空虚には響かず、実践可能なライフハックに見えてくるのである。

何かに悩んでいる人は、ちょっとでも面白そうな方向に、楽しそうな選択肢に、足を伸ばしてみてください。自らの意思でグッと足を伸ばしてみたとき、誰のものでもない、自分だけの物語がそこから始まります。

 

 『地方を生きる』という題ではあるけれども、これは「地方で生きる」ことにとどまらず、「自分の人生を生きる」ことに関しての本だったのだ。おそらくそこに、「地方で生きる」ではなく「地方を生きる」とする一因があるのだろうと思うのだが、何にせよ、仕事に関係して読んだ本ではあったが、いたく感動させられてしまった。

 

追記:

一周回って、地方移住とは、「自分の人生」を形成する、居場所と事を共にする人間との出会いであるわけだから、やはり、自分探しの一手段なのだと考える。

*1:この考え方は障害者施設のレッツの活動に参画する中で出てきたと述べられているが(そこから『ただ、そこにいる人たち 小松理虔さん表現未満、の旅』という本が書かれている)、近年では、病院的ないわゆる「治療」ではない、「そのまま」でいることを肯定するような障害との関わり方が広がってきているようである。私は「べてるの家」に関係する書籍で知ったのだが、(病院的な)精神病棟で働いていたこともある私には衝撃だった。