「オンライン授業」についてのメモ(コロナ禍で)

オンライン授業について。様々なアプリケーションやサービスが用意されているのだが。一つ思うのは、それらを使って、従来の授業をオンラインで再現しようとする必要はない、というか、そうしようとすべきではないのではないか、ということだ。

従来の、オフラインの授業は、オフラインの様々な困難による限界の中で行われていた。例えば、40人という人数の困難、一目に40人を見ることができない視覚的・空間的困難、一斉に上がる声を把握することの聴覚的困難、等々。オフラインの授業を、その限界も含めてオンラインで再現しようとすることによって、教員や生徒にとっては慣れた形式なので楽ではあろうが、無駄になるものや、失われるものもあろう。

これを感じたのは、どこで見たのか忘れてしまったがあるメディアで、都立高校での取り組みとして、オンライン会議システムを利用したリアルタイム授業が報じられていて、生徒の「挙手」を画面上で把握することのできる仕組みが紹介されているのを見たときだ。発問をして、「挙手」した生徒を指名し、解答を元に授業を進める。極めてオーソドックスな授業形態で、もちろん私も多用するけれども、この、発問に対する解答をクラスの中で公言したい生徒の中から1名を選び出す「挙手」という仕組みは、わざわざオンラインで再現しなければならないものなのだろうか? 

無論、緊急事態にあって、オフライン授業をオンラインで再現しようとする、それが可能である都立高校の人材や資金といったパワーは、称賛されるべきだろうが。

オンラインで授業を行わなければならない状況だからこそ、授業の本質が問われなければならない。あるいは、「授業」という形式さえ、オフラインの限界の中で必要とされるものであって、今、「授業」に代わって、「授業」でさえない学びがオンラインに行われるべきなのかもしれない。オフライン/オンラインを問わない、学びの本質を問う学びの哲学が現場に必要とされているのを、現場にいてオフライン授業のオンライン化を進めながら、ひしひしと感じている。