現実に負けている映画『そうして私たちはプールに金魚を、』

 前々から気にはなっていたのだが、映画『そうして私たちはプールに金魚を、』をようやく見た。公式サイトから見ることができた。公式サイトを見ると仰々しい煽り文句が並んでいるが、改めて見ると、白けた気持ちになる。

 狭山——埼玉、東京郊外、ロードサイドの閉塞と憂鬱。大学生だった私なら大変興奮したのだろうが、しかし、もう、こういうのに共感できなくなってきた。なぜかといえば、そのような閉塞的な現実の中で、大人として、私なりに生きているからだ、と言うよりほかない。

 しかし、共感はさておいても、女子中学生がプールに金魚数百匹を放ったという現実の事件に対して、そうした土地に生きる平凡な女子中学生の閉塞感というような動機(「そうして」)の想像は、完全に負けているだろう(さらに言えば、「女子中学生」という現実に、女優たちも負けているだろう)。半時間程の短編映画に、破綻させずにこれだけの演出を盛り込み、その凝縮された完成度はやはりすごいのだろうが、このつまらない脚色(「そうして」)がなければ、もう少しおもしろかったのではないか……。

善悪の彼岸の動物たち――芥川龍之介「羅生門」

芥川龍之介羅生門」を読んでいると、たくさんの動物たちが出てくる。例えば蟋蟀や、鴉や、「狐狸」。しかし、そうした動物たちは、例えば羅生門に死体をついばむために集まり糞を残していた鴉は「刻限が遅いせいか、一羽も見え」ず、風が夕闇とともに吹き抜け、蟋蟀は「どこかへ行ってしま」う。そして下人は門へと登るのだが、そこからは、死体と下人と老婆の世界であり、ただ「蜘蛛の巣」だけが残されている。

しかし、門の上にも、動物のごとき存在がいる。下人や老婆である。下人は「猫のように身を縮め」るし、「守宮のように足音を盗」む。老婆は「猿のよう」であり、「鶏の脚」のような腕を持ち、「肉食鳥のような鋭い目」を持ち、「鴉の鳴くような声」で、「蟇のつぶやくような声」で語る。

このように動物を用いた比喩表現が多様されていることは、既に一般的な着目点となっている。そして一般には、老婆の化物性・異物性を表していたり、人間の動物的な醜悪さを表していたりすると解釈されるらしい。なるほどとは思いつつ、しかし、門の下では、つまり、登る前と後の場面では、動物の比喩が用いられない、ということも面白いポイントではないか。つまり、悪を選びきることのできない門の下で、あるいは、悪を選び門を降りたところで、下人は人間なのである。そう考えると、動物とはむしろ、そうした善悪の境界(無論、「羅生門」の時間帯の設定や門という場所の設定は、「境界」として解釈されてきた)、あるいは、善悪の混じり合った、あるいは、善悪の存在しない、そのような在り方を表すものに見える。芥川龍之介ニーチェを読み、様々な形で影響を受けていたことは論を待たない。羅生門の上は、善悪の彼岸――人間的善悪が一度批判され解体される空間なのだ。そしてそこから降りていくとき、下人はまた別種の善悪の基準を持って降りていくのである。

このようなことは既に誰かが書いているのかもしれないが、無数の論文を読みあさる時間もなく、もし先行する文章があれば、教わりたい。

 

『シン・エヴァンゲリオン』シンジの新しい恋人について(ネタバレあり)

エヴァンゲリオン新劇場版には、真希波・マリ・イラストリアスという、アニメ本編には出てこないキャラクターがいた(漫画版のキャラクターではあるようだ)。萌える(?)女性キャラクターで、私もなかなか好きにはなったが、しかし、彼女は何のために登場したんだろう? また、『Q』から登場する、トウジの妹や は、何のために? 彼女たちニューヒロインは、単なる物語の華なのか? 『シン』を見る限り、そうではない。むしろシンジが真エンディング=成長に進む上で、決定的な役割を果たしているのが彼女たちだ。つまりは、シンジが、誰もが自分の恋人=ヒロインとなる(そこでは、母性でさえヒロインのものである。エディプス的欲望)深夜アニメ・アダルトゲーム的で幼稚な世界から、他者には他者の恋人がいて、自分もまた新しい恋人を見つける世界へと進むとき、エヴァのない世界に復活したシンジのその新しい恋人となるのが、イスカリオテのマリアと呼ばれる真希波マリなのである(イスカリオテとは裏切り者ユダの出身地で、ネルフへの裏切りを指すのだろうが、マリアとは、マグダラのマリアから取られた名だろう。娼婦にして、神の子の恋人)。

エヴァ本編のヒロインたちは、新劇場版後半では、シンジから一定の距離を取る。Qの冒頭、シンジに感情移入して感じる突き放された感覚は象徴的だろう。式波アスカも、葛城ミサトも、トウジの妹サクラや北上ミドリといった印象的な新しいヒロインたちも、むしろシンジの敵として映る。ヒロインたちはシンジを拒絶する。残されているのは綾波レイからの好意だけだったから、シンジは綾波にすがることになる。

そして『シン』である。『シン』で「設定」が次々と明らかになり、綾波はシンジに好意を抱くよう調整されていたと判明し、直後に彼女は消滅する。シンジは恋人を失うのだ。またアスカには、相田ケンスケ(ケンケン)という恋人がいて、シンジには「好きだった」と告げる(加えれば、委員長ヒカリはトウジとの間に子をもうけている)。サクラやミドリは、シンジに銃口を向ける。シンジは、そのすべてを受け入れる。そしてミサトは、「大人のキス」(旧劇)ではなく、むしろ母親(保護者)としてシンジを庇う。

そして、最後のシーンでは、シンジはマリに対して、リョウジを彷彿とさせるやり方で好意を表現する(リョウジはシンジの大人のモデルとなったのだろう)。

レイやアスカに加えて新たに登場したエヴァパイロットのマリは、一部の観客にも受け入れがたい存在だったようだ。私自身、レイとアスカという二大ヒロインで完結した世界に、同列の存在としてマリが加わることには多少の違和感があった。しかし、この新しさが、シンジの恋人には必要だったのだろう。つまり、幼稚な、閉じられた世界を失って、それでも生きていく上で、新しい世界に踏み出し、新しい人間関係を作る、そうした大人的生き方を象徴するのが、マリの存在だ。

 

感想記事①『シン・エヴァンゲリオン』に泣く

『シン・エヴァンゲリオン』に泣く(微ネタバレ)

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を見てきた。まず、これまで見たことのない映像だと感じた。斬新なメカ描写で、斬新な戦闘描写だった。しかし、作品の出来としてどうこうではなく、すべてを理解してしまったという感覚があった。号泣した……と書きたいところだが、気持ちの上では号泣し、涙はもう長らく出ていない。大人になってしまった……。

ついこの間、『序』を見たのだが、そのときにも私は、むしろ大人へと感情移入してしまうことに触れ、大人の描写の深まりを感じていたようである(この日記)。そして『シン・エヴァ』は、少年の頃に本編を見て、大人になってしまった私たちに、一番わかってしまう映画なのではないかと、そう思った。これが幼稚な傲慢さであることは理解しているが、他の誰よりもわかってしまったと、そういう感覚がある。つまりは、エヴァンゲリオンは、本編は少年の目線で描かれ、新劇場版には大人の目線が導入されている。

私は高校生のとき、人類補完の欲望やゲンドウの欲望が、まったく理解できなかった。そしていまや、ユイと再び会いたいというゲンドウの欲望が心の底からわかってしまう大人になってしまった。同時に新劇場版は、本編を見ても理解し難かったゲンドウの気持ちが、わかってしまうように作られている。

そして私たちはそうした欲望が、幼稚な、リアルではない、紙やスタジオの上でしか再現できない欲望であることも、わかってしまっている。『シン・エヴァ』の描写は、そのような大人としてのありさまを映し出す鏡であった(あるいは人は、子供のまま大人になるのかもしれない。子供のまま、大人を纏っていく……)。

エヴァンゲリオンを見てきた者には、アニメ本編より、すっきりした物語に見えるだろう。もちろん、細部の設定や演出は一度見ればわかるというものではなく、これまでどおり理解を拒絶するようなものになっているが、総体としては、入ってきやすい。おそらく、アニメ本編がストレートに描ききらなかった(きれなかった)、大人の、あるいは成長のありさまを、この劇場版はほとんど強引に描ききった。

エヴァンゲリオンすべてを締めくくるフィナーレにふさわしい、壮大で力強い、神話的な物語と演出。語りきれない。何について語ればいいのか、しかし、あらゆることについて語りたいと思わせる、オタク心くすぐる映画。エヴァンゲリオンに出会い、オタクとして育ち、大人として生きている私たちに届けられた贈り物のようにも思える。

 

感想記事②『シン・エヴァンゲリオン』シンジの新しい恋人について(ネタバレあり) - 朝霧記

母と亡父の往復書簡、その文体と「打ち言葉」

 実家に帰り、母と亡き父の残っている手紙を母が出してきて何枚か拝読した。「この手紙がつくのは三日頃だろうから、僕はまだ山にいるわけだ。信州の山は夜は冬みたいだそうです。」「航空券は早めに取ってください(君は少しのんびりだから)」などという文が印象に残った。ここがとは言い難いが、やはり現代とは文体が違う。文学の匂いを感じるのは、私の文学のイメージが昭和に書かれたものによって形成されているからだろう。また知り合いに言及するのに「M子さん」だとか「Y氏」などと記していることが印象に残った。手紙というものの、秘密保持能力への(無意識の?)疑い、だろうか? ところでこの「M子さん」というのは父親の元カノらしいのだが、偶然母親と同じ会社に勤めることとなり、プライベートのことで父親が母親の会社に電話をかけたときにM子さんが出たことで、母親と父親が付き合っているということが明らかになってしまったらしい。電話機の貴重な時代の美しいエピソード。

 しかし、手紙を書くという習慣がなくなり、メールを経て、LINEに至り、現実的に誰か一人に向けてまとまった文章を書く、そのための文体は、失われつつあるのではないだろうか。私は文体の概念が不得手で、どうにも掴み所のないものとして感じられるのではあるが、今、このような文体で文章を書く人はいないと、そう思わずにはいられない。(一方で近頃、「往復書簡」と名の付いた書籍が出版されていたことを思い出す。消えつつある文体の再現、なのだろうか。手に取っていないのでわからない。)

 メールを経てリアルタイム化が進み、LINEの文体は文体には違いないのだろうが、口語を超えて口語的な書き言葉であるようだ。事実、LINE上の打ち込まれた言葉によるコミュニケーションから生まれたらしい口語もある。LINEの書き言葉は、口語に先んじている。またあるいは、それは、書き言葉ではなく、「打ち言葉」とでも呼ばれるべきようなものに変容しているのかもしれない。

「恋愛しないので」――田島列島『水は海に向かって流れる』

1巻

久々に読むのに時間のかかる漫画を読んだ。薄味の画風には嫌味がなくいつまでも見ていられる。なぜ見ているのかといえば、画力がすごいとか、描き込みがすごいとか、そうした凄さというのは私には判断できず、そうではなくて、画と台詞による巧みな心理描写に心打たれ、ページをめくれなくなってしまうのである。ページをめくれない……これこそ本の醍醐味である。

しかし、ヒロインの「26歳OL」という設定の美しさよ。若すぎず、かといって妙齢の女性が、「恋愛しないので」と呟くその後ろ姿よ。それでいて主人公の高校生男子や周囲には恋愛の主体/客体として見られてしまう(「〜の彼女かな」、あるいは近寄られて赤面する主人公)。あるいは、恋愛というものは、望むと望まざるとにかかわらず、参加させられる、あるいは舞台にのせられる、そういうものなのかもしれない。これもまた恋愛の苦しさの一側面であり、場合によってはこれは、希望でもあるだろうが、仮にこの漫画の物語にハッピーエンドが待っているとして、それは恋愛によるものなのか、それとも恋愛から離れたところにあるのか、どちらにせよ先の楽しみな漫画である。

 

2巻

エモと笑いのテンポ感。2ページに一度くらい立ち止まらせる力がある。

 

3巻

恋愛をする人間の人生の大部分が(誰かとは)恋愛をしない理由に振り回されている可能性を感じさせる漫画であった。一人と恋愛をするという恋愛の基本的な形態も、裏返せば他の人と恋愛をしないということだ。

通学路は学校か?

制服の話

最近、学校制服が何かと話題になっている。私自身、制服のない、完全私服校を出て、こうして立派な大人になったわけで、制服指導の意義のよくわからないところもあるのだが、一方で、きちんとした格好の意味・価値を尊重する気持ちにも共感できるし、多くの生徒が卒業後は就職するというような学校では、 きちんとした格好を厳しく指導しておくことが、社会に出たときの生徒の利益に直接的に結びつく、というようなことも理解できる。学校の不条理が社会の不条理を温存するというような批判はよく耳にするが、学校は社会の一部であって、学校だけ浮き立つわけにもいかない。社会を変えるという大きな流れに乗ることはできるかもしれないが、一校二校だけ変わりものになるわけにもいかない。学校⊂社会。

制服指導の目指すところは、何なのだろう? 今日は、登下校時にはスカートを折っていて、学校ではきちんと着ている子供たちがいるということに気がついた。こうして、時と場所をわきまえ、学校⊂社会に順応した格好をする、そうした穏当な人物の育成、だろうか? 本当にこれでいいのか、という若干の引っかかりはありつつ、制服指導の達成を感じもする一日であった。

通学路は学校か?

この若干の引っかかりを言語化してみると……「登下校中の指導はしなくていいのか」という誰かの声が聞こえるのだ。実際、大抵の学校で、登下校の指導を行っているのではないだろうか。挨拶をしつつ、制服の着こなしを指導したり、道に広がって歩かないよう指導したり、大声で会話しないよう指導したりする。一つには、苦情への対応という側面がある。つまり、「生徒が道に広がっていて邪魔だ」とか、「生徒が騒がしい」とか、「生徒が公共スペースを占有していて私たちが使えない」といった苦情が学校に寄せられるわけだ。こうした苦情が学校に来る背景には、まず彼ら彼女らが制服を着ていて、それによってどこの学校の生徒であるかが明らかになること、そして、制服を着た子供たちの「指導責任」のようなものがその在籍する学校にあると認識している市民が多かれ少なかれいる、ということがある。

これが正当な在り方なのだとすれば、登下校中は、学校教育の内部ということになる。とすれば、学校においては制服をきちんと着て(叱られる可能性があるから、あるいは、きちんと着るべきだという倫理観が育っているから)、登下校時は着崩す(個性的な格好をしたいから、そっちの方がかっこいい/かわいいから、と周りが考えているから)というスタイルは、生徒として誤っている/学校として認めてはならないスタイルということになる。

しかし、そうなのだろうか。登下校時は、あるいは制服を着ている時は、彼ら/彼女らは、学校にいるのか? そこは学校の教育活動の場なのか? 教員はついていない(勤務時間外だ)のに?

これは社会の決めることなのだろうが、板挟みになるのは心苦しいものである。教員は、板挟みどころか、対立状態にも置かれうるのだ。何となくやってきたツケ、を感じる日々である。

 

ブラック校則 理不尽な苦しみの現実

ブラック校則 理不尽な苦しみの現実