文具放談

 もう何年も前のことだが、学生の時分、教育実習に行った学校で、子どもたちがみんな、テープのりを使っていた。スティックのりはわずかに生き残っていたが、液体のり等を使う者は皆無であった。私などは、テープのりの存在は知っていたけれども、かつて、彗星のごとく登場し、液体のりから格段に便利になったスティックのりに、まさかこの新顔が勝るものであるはずがないと、使わないでいた。しかし、子どもたちがみんな使っているものだから、つい買って使ってみると、これがとんでもなく便利で、いまや、テープのり以外は、持ってすらいない。

 

 そんなパラダイムシフトは、やはりしばしば生徒を観察していて起きるもので、最近は生徒たちがコクヨの「復習がしやすいプリントファイル」というものを使っているのを発見し、買って自分の授業用の資料を挟み始めたのだが、これがまたものすごく便利である。これまでは普通のクリアファイルに挟んでいたわけだが、教卓の上に数枚広げてしまって、授業終了後大急ぎでしまったり、時にはしまう暇もなかったり、そうすると順番も向きもごちゃごちゃになって、プチストレスであった。しかしこの「復習がしやすいプリントファイル」は、まず開いて2枚は同時に見ることができ、クリップでとじたままめくって次のプリントを見ることもでき、とにかく、スムーズに授業を始め、終えられるようになった。

 

 結局、生徒にとって良いものは、教員にとってもいいものなのだ。そういえば最近は、教材研究用に、ユニボールワンという、三菱鉛筆の、「記憶に残りやすい」等とうたったゲルインクボールペンを使い始めた。気分として、私は、普通の油性の赤や青や緑を使っていたくなく、プリントや教科書への書き込みにも、万年筆を使ってみたり、4Cの珍しい色のリフィルを使ってみたり、色々と試してきたが、結局この、今のところ手に入れやすく、扱いやすく、記憶に残るかはさておき発色が良くぱっと見て認識しやすい、ユニボールワンに落ち着くかもしれない。

 

 おまけだが、もう1つ、これは教場とは関係なく、最近使い始めてまあまあ感動したものに、スライドクリップというものがある。用途はダブルクリップ等と同様で、いわゆるゼムクリップでは収まらない枚数の紙を留めておくのに使うわけだが、このスライドクリップの利点は、とにかく、留めていてかさばらないことにある。例えばメモ帳として使っているリングノートで、使っていないページがすぐに開けるよう、使用済みのページを留めているのだが、スライドクリップで留めれば、かさばらず、比較的書きやすい。

 

 まったく、知らないうちに、知る人ぞ知る文房具が誕生しているものである。

宇宙世紀に乗り遅れ——『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』

映画館でやっていたときから見たいと思っていたのだが、早くもAmazonプライムに出たと聞き、観た。


メカやアクションはかっこよく、ヒロインは萌える、期待どおりのガンダムなのだが、しかし気になったのは、地球連邦の高官が利用するというシャトルや高級ホテル、士官のいる空間、東南アジアの島国の街の路地を背景にするシーンが、結構なウェイトを占めて丁寧に描かれていることだ。『閃光のハサウェイ』の紛争の背景として、地球に暮らすことを許可された地球連邦を中心とする上層階級が「マンハンター」によって摘発され宇宙移民を余儀なくされる人々を虐げているといった構造が設定されているわけで、もちろん、そうした設定を描くものではある。地球連邦の中枢として地球に住むことのできる貴族的な人々と、彼らの生活を支え、あるいは摘発される街の人々を描いているわけだ。


そして、主人公であるハサウェイは、立場上、その間を行き来することになる。そして彼自身、「すべての人類を宇宙へ」というような自身の理想とテロリズムという凶悪な手段に疑念を抱く様子が描かれる。きっかけとなるのが、ギギとの会話や、街のタクシー運転手との会話だ。


彼女/彼とハサウェイの違いは、「汚い」現実があるか否かだろう。「伯爵」と呼ばれる人物の愛人であるギギは自身を「汚れている」と表現する。タクシー運転手は、ハサウェイらを「学がありすぎる」「暇」と評し、「千年先のことを考えている」と反論するハサウェイに「明後日」のことを考えるような暇はないと答える。今日明日を生きる金を稼ぐ、そのために働く必要があるのだ。彼が働くのは、いかにも東南アジアのイメージに合致する猥雑な街だ。ハサウェイは、貴族的な空間から、その街の雑多な路地を通って、自身の率いるテロ組織の元へ戻り、ガンダムに乗ることになる。


宇宙世紀」とは、初代の『機動戦士ガンダム』に始まり、『0083』『Zガンダム』や『逆襲のシャア』、『ガンダムU.C.』『Vガンダム』に描かれた時代であるが、この時代は、初めの戦争の「コロニー落とし」に始まり、小惑星を落としたり、「ラプラスの箱」を公開したり、巨大なローラーで地球を更地にしたりといった、そういう、言ってしまえば単純な手段で、世の中を一変させようというような時代だった。

 

ハサウェイは、まずは清潔でのっぺりとした空間にいる。そして、雑多な街を通って、やはりのっぺりとしたメカに囲まれた組織の基地と、ガンダムのコックピットに収まる。この移動は、私には、宇宙世紀的な単純さと対極にあるものとしての地上的猥雑な複雑さの往還を象徴するものに見える。


ハサウェイは、シャアのような高邁な理想を掲げながら、シャアのようにアクシズを落とすというような単純な手段は取れず、高官殺害といった地道で現実的なテロリズムの手段に訴えている。そして、原作のその結末ははっきりと覚えているのだが、彼は処刑されることになる。『閃光のハサウェイ』は、地上の猥雑さを描きこみ、そして主人公に地道で現実的なテロリズムを担わせることで、宇宙世紀的な単純さの不可能性を、ついに描いているのかもしれない(もちろん何十年も前に原作小説があるわけだが、読んだのがなにしろ中学生で、そういうことは読み取らなかったし、そういう細部は記憶にあまり残っていない)。戦乱の世が終わらないことは『Vガンダム』や『∀ガンダム』が証明している。結局人類は、「重力に魂を縛られ」猥雑な地上で、今日や明日を生きていて、明後日のことなど考えられないものなのかもしれない。世の中を一変させるような単純な手段などは存在しない——そのような、現実的な大人の諦念が見え隠れするガンダムシリーズだからこそ、「それでも」抗う若者たちの姿はかっこよく美しく、オタクの心を打つわけだ。

桜庭一樹と鴻巣友季子のすれ違いについて思ったこと

 

鴻巣友季子が書いた桜庭一樹小説「少女を埋める」に対する批評(こちら)の中のあらすじの記述に対して桜庭一樹が批判し、訂正を求めている。引用したのはオープンになっているその一連の批判の冒頭だが、驚くべきツイートである。「原稿」とは彼女の創作した小説「少女を埋める」のテキストのことを指すのだろうが、鴻巣があらすじに書いた「虐待」は本文にはなく(後に鴻巣は本文中の「虐めた」を虐待と取ったと述べている。一連のツイートを参照してほしい)、さらには「またそのような事実もありません」というのだ。また? 事実?

 

創作物である小説に虐待を表す記述はないと、鴻巣のような文学者にさえそう読まれてしまう程度には、意図した内容を伝える文を書く能力がないことを恥じつつ(意図を伝えられないことは小説の魅力とは関係ないだろうが)そう指摘する、そのことは理解できる。しかし、「またそのような事実も」とは、何だろう? 小説と併置される事実とは?

 

 

作者によれば、この小説は「私小説として発表され」ているらしい。桜庭の言う「ある人物」とは、作中人物だろうが、作中人物である彼女が「虐待した」と誤読されることに、「私小説として発表されたこの作品」だからこそ懸念があるらしい。そしてそれは「「報道被害」という面もある」と言うのだ。

 

報道被害とは普通、事実や事件の報道において、故意であれ過失であれ、本来あるべきではない被害が報道対象となっている人物やら団体やらにふりかかることを言うだろう。ここで報道されているとすれば、小説「少女を埋める」か、あるいはその作中人物であるか、そこにはテキストとその解釈以外の事実など、存在しないのではないか?

 

意地悪く書いてきたが、要は、桜庭一樹は作中人物のモデルとなった人物が事実として虐待を行ったと誤解されることに懸念を抱いているのだ。モデルとなった人物が虐待を行ったという「事実もありません」と述べているのだ。これは私の彼女のツイートに対する誤読であると信じたいが、そうでないならば――。桜庭は鴻巣に対し「自分の解釈とはっきり書かれていることを混同した」と批判しているが、それ以前に、(無論、突き詰めて考えていけば、その差異は混じり合ってとけていくこともあるのだろうが、基本的なこととして)創作と事実を混同してはいけないのではないか、と言いたくもなる。

 

勢いで、意地悪く書いてしまった。桜庭一樹の思いも重々わかるのだ。しかし、小説として発表してしまった以上、いくら「私小説」だと、「事実に基づくのだ」と主張しようと、自分の思いに反する読解に対して批判に終わらず「デマ」だから「訂正」を要求するというのは、作家として不誠実かつ未熟だと思えてしまうし、「私小説」といったワードを使えばなんでも誤魔化せる(汚い言い方でごめんなさい)というような、ずるくてダサい姿勢に見えてしまう(と、桜庭一樹の罵り文句を引用してみたが、なかなかのものである)。

 

さて、桜庭一樹鴻巣友季子の「論争」を読んで、いにしえのモデル小説をめぐる裁判沙汰などを思い出したりしていた。そこから、モデルや、フィクションや、私小説について考えたりもしたが、最終的に思うのは、私小説なるものの魅力について。私小説なるものを書く作家には、どうもダメな人間が多い(等と書くと抗議されそうだが)。これは伝統的にそうで、そのダメさの告白が私小説のはじめにあったわけだから当然といえば当然なのだが、もちろん作家それぞれのダメさがあって、それが私小説の魅力を生みもしている。しかし、いにしえの私小説作家たちとは少し違って見える彼女のダメさは、何だろうなぁと考えてみると……案外、古今の私小説作家たちのダメさの根底には、手垢の付いた言葉だが「甘え」と呼ばれるものがあって、彼女のダメさもまた、その「甘え」の現代的な表れと言えるのかもしれない。

究極のローカルとは——小松理虔『地方を生きる』

 

究極のローカルとは、自分の人生だ。

 『地方を生きる』のあとがきにこう記した筆者自身「うお、そうか、まじか、と怯んで」いるが、読者の私も怯んだ。ここまで、筆者の経験と悩みと思考を追ってきた私(読者)には、これ以上のことは言い得ない究極の一文だと感じられたからだ。筆者がここまで書いてきたことは、この一文以外にはたどり着き得ない。「地方」において活動し続け考え続けた筆者の偉大な到達だと思う。

 

 ローカルとは、第一章で「いま、あなたが住んでいる地域」と定義される。(東京に対する)「田舎」のイメージの強い「地方」の言い直しである。本書のタイトルでもある「地方を生きる」とは、その「いま、住んでいる」地域を生きることである。であれば、究極のローカルが「自分の人生」であるとき、「地方を生きる」とは、「自分の人生を生きる」ことに他ならない。

 

 「地方を生きる」ことは「自分の人生を生きる」ことだ、なんてことになると、薄っぺらい自分探し言説に見えてこないこともないが、しかし、この結論には、必然性がある。

 

 たとえば、筆者が障害福祉に関わる中でたどり着いた、「やるコミュニティ」と「いるコミュニティ」という考え方*1。本文を簡単にまとめれば、前者は「目的」や「成果」のための、「目的遂行型」のコミュニティで、世間にはこのようなコミュニティばかりであると筆者は述べる。対して後者の「いるコミュニティ」とは、なにかをしてもいいししなくてもいい、ただその人がいることを受け入れるコミュニティであるという。そうしたコミュニティを地域に作れないか、と筆者は提言するわけだが、そのような、個人の存在を前提にするコミュニティは、「全体」で一つの目的(無論、本書ではたとえば「復興」という目的が挙げられる)に向かって「やるコミュニティ」に対して、「個」を重視する態度であると言えそうだ。

 

 また、ローカルという語がコロナ禍と交わるとき、その語がリモートの対義語であることが浮かび上がってくる。筆者はこのように書いている。

コロナ禍では、オンラインの環境を使っていろいろなことを行う「リモートなんとか」が増えました。この「リモート」とは、もともとはITの分野で使われていた言葉です。回線の向こう側にある別の機器を「リモートコンピュータ」とか「リモート端末」と呼び、外部の別の機器と対比して、目の前のある特定の機器自身のことを「ローカルコンピュータ」とか「ローカル端末」と言って区別してきました。わかりやすく区別すると、「リモート」とは「遠隔・オンライン・向こう側」を指しますが、「ローカル」とは、「現場・対面・こちら側」を指す。

 コロナ禍において生じた「リモート」が、地元・地方=ローカルの「現場・対面・こちら側」性に光を当てる。「地方を生きる」とは、「現場」を、そして「対面」を生きるということでもあるわけだ。そこには、相手がいるのである。

 

 そのように「地方を生きる」ことを考え続けていれば、必然的に、ローカルと個人が本質のところで結びついてくる。そして、リモートの対義語として捉えたときに見えてくる「対面」性から考えてみると、この個人=「自分」とは、誰か一人の人間だけで成立するようなものではないということに気づかされる。筆者が「共事」という概念を用いて考えようとしているのは、おそらく、そのことだ。彼は「当事/当事者」に対しての概念である「共事/共事者」を、東浩紀の言う「観光客」的に(『ゲンロン0 観光客の哲学』)、当事者でも専門家でもなく個人の興味・関心をもって物事と関わる、「事を共にしてはいる」ような在り方であると説明している。そのような概念を踏まえて「自分の人生」を考えてみると、それは誰か一人の当事者のものではなく、否応にも「共事者」のものだ。どうしたって、誰かは誰かの「自分の人生」に関わってしまうし、また関わられてしまうのだ。

 

 「地方を生きる」ことは「自分の人生を生きる」こと……これが薄っぺらく見えないのは、筆者自身の「自分の人生」の経験と、そこから導かれる実践的なライフハックが書かれているからだろう。小松理虔の文章の面白さは、そこにあると思う。たとえば就職したものの面白さを感じられずに辞めて海外に行ってみたり、いわばほとんどなりゆきで結婚を決めてしまったり、そして震災やコロナ禍において、行動し、悩む。その筆者自身の悩みが、遠目にはあまり一般的ではない彼の経歴とは裏腹に、言ってしまえば卑近なものであったりする。そこをおそらくはリアルに書き、そしてそこから思考するからこそ、たとえば「面白がる」とか「晴耕雨読2.0」とか「二枚目の名刺」とか「ポジティブな公私混同」とかいった、ほとんど考え方に過ぎない、しかし極めて実践的なライフハックが出てくるのだ。だから、次のような励ましも、決して空虚には響かず、実践可能なライフハックに見えてくるのである。

何かに悩んでいる人は、ちょっとでも面白そうな方向に、楽しそうな選択肢に、足を伸ばしてみてください。自らの意思でグッと足を伸ばしてみたとき、誰のものでもない、自分だけの物語がそこから始まります。

 

 『地方を生きる』という題ではあるけれども、これは「地方で生きる」ことにとどまらず、「自分の人生を生きる」ことに関しての本だったのだ。おそらくそこに、「地方で生きる」ではなく「地方を生きる」とする一因があるのだろうと思うのだが、何にせよ、仕事に関係して読んだ本ではあったが、いたく感動させられてしまった。

 

追記:

一周回って、地方移住とは、「自分の人生」を形成する、居場所と事を共にする人間との出会いであるわけだから、やはり、自分探しの一手段なのだと考える。

*1:この考え方は障害者施設のレッツの活動に参画する中で出てきたと述べられているが(そこから『ただ、そこにいる人たち 小松理虔さん表現未満、の旅』という本が書かれている)、近年では、病院的ないわゆる「治療」ではない、「そのまま」でいることを肯定するような障害との関わり方が広がってきているようである。私は「べてるの家」に関係する書籍で知ったのだが、(病院的な)精神病棟で働いていたこともある私には衝撃だった。

(神の)存在を問う営み——『若い読者のための哲学史』

 

 初めに述べておけば、私は哲学に関しては、学部で専門としていた程度の専門性もない素人なのだが、とはいえ文系で大学院まで進んでしまった以上哲学を無視するわけにもいかなかったから、入門書レベルの本はまあまあ読んでいて、しかし「使う」ということがないからどんどん記憶から消えてしまう。

 

 そういうわけで、たまたま何らかのセールでkindle版が安かったナイジェル・ウォーバートン『若い読者のための哲学』を読んだ*1のだが、なかなかおもしろかった。筆者は哲学入門書の執筆で有名な人物らしい。代表的な哲学者が基本的に時代順に並んでいるのかいないのか、デカルトとロックの間にパスカルスピノザ、リードが入って、ベンサムとミルの間にヘーゲルショーペンハウアーについての章が入り、と、見えにくくなっている流れもあり、「いない」哲学者もおり、そうしたところは、経験論だとか功利主義だとかいったテーマの別の本で補わなければならないけれども、一方でこの哲学者の並び方には、どうやら神の存在を巡る思想の流れが背景にあるようだ。

 

ソクラテスにとって、知恵とは多くの事実を知ることではないし、作業の方法や手順を知ることでもない。わたしたちの知の限界も含めて、わたしたちの存在の本質を理解することだ。こんにちの哲学者がやっているのは、おおむねソクラテスがやったこと、つまり、難しい質問をし、理由や根拠について考え、実在の本質について、また、いかに生きるべきかについて自分自身に問いかけ、そうした重要な問いに答えを出そうとすることである。

 

 これは本書の序論ともなっている、ソクラテスについての記述である。そしてその後の哲学者たちの記述においては、彼ら*2の哲学についての基本的な説明と共に、「神が存在する」という命題に対するスタンスが説明されている。初めは、単に、我々の感覚にはない、西洋における哲学と神学(神学と哲学?)の伝統の重さからくるものだと思って興味深く読んでいた。例えば「キルケゴールのもっとも有名な著作『あれか、これか』」という記述があるが、日本でもっとも有名なのは『死に至る病』だろう。どれだけ客観的に「もっとも有名」なのかはわからないが、この記述なども、日本とは違う西洋における哲学受容を感じるところだ。しかし、ソクラテスの章段から改めて考えてみれば、神が存在するのか否かという問いは、実は「存在の本質」の問いの一形態であるようだ。つまり、神のようなものの存在を考えるときには、存在とは何かという問いを、避けて通ることができないわけだ。これは、もしかしたら常識的なことなのかもしれないが、私には発見だった*3

 

 本書の哲学史最後の哲学者がピーター・シンガーなのもおもしろい。古代ギリシアやヘレニズムの哲学者についての記述と呼応する形で、いわば結論として位置づけられるのがピーター・シンガーになっている。読んだことのない哲学者ではあるが、学生の頃にその思想の一端は聞きかじっていて、過激という印象であったけれども、それは原理主義――哲学原理主義の過激さだったのだなぁと、本書を読んで改めて思う。

*1:普通に買おうとすると3500円くらい。高い……私だったらこれくらいの入門書にその金額は出せない。なお原著のkindle版は1500円(14ドル?)くらい。きっとそれほど難しい英文ではないだろうから、どちらかというとこちらがおすすめか(読んでないけど)

*2:思えば本書では章題になっている女性の哲学者は、サルトルカミュに挟まれたボーヴォワールを初めとし、ハンナ・アーレント、二人並んだフィリッパ・フットとジャディス・トムソンの四名だ。哲学史というものに現代に至るまで女性の名が出てこないことの意味を考えさせられる。本書に関して言えば、ハイデガーについてはアーレントの章で一段落触れるだけ、という英断がなかなか

*3:しかし、やはり、ハイデガーの章がないというのは、かなり意識的にそうしているはずだ。哲学を「存在」をめぐるものとして記述していながら、ハイデガーではなくアーレントの章なのだから……。

映画『返校』がホラー映画である意味を考える

 台湾映画の『返校』を見てきた。原作のゲームはデモ版? だけプレイしたことがあって、デモ版の序盤しかプレイしていないのかもしれないが、雰囲気はホラーだったもののお化けとかは出てこなかったから、雰囲気だけホラーなのかと思いつつ見にいったのだが、割と前半は「青鬼系」(妻が命名)のホラーだった。振り向いたら何かがいる、という展開が繰り返され、「青鬼系」(妻の命名ながら、微妙なネーミングだ……)ホラーとしては優れていないのかもしれないが、その背景が語られ始めると、なかなかおもしろくなる。ゲームはきちんとプレイしていないから、この映画だけについて考えてみたことを、つらつらと書いてみたい。

 背景にある台湾の「白色テロ」、中国語なら「白色恐怖」で、こちらの方がニュアンスが掴みやすいようにも思うが、反共の、言論統制・軍事優先の厳しい時代が戦後の台湾にもあったそうだ。台湾のこともその時代のことも詳しくは知らないのだが、これは私の好きな映画『牯嶺街少年殺人事件』にも政府による拷問のシーンがあり、私の見てきた韓国映画などにもいくつか軍事政権による弾圧の影の映り込むものがあったが、台湾には「白色恐怖」というものが共有された記憶としてあるらしいことを知った。

 そして『返校』にも「思想や正義のために死んでいく人々の中で誰かが生き延びて忘却に抗い語らなければならない」というような主題が見える。戦争や、政治的な弾圧を主題とする物語において繰り返される主題ではあるけれども、それでも感動的なのは、死んだ人々(今、そこには存在しない人々)の物語を語るということが、物語の根源にあるからなのではないかと思う。

 『返校』に現れる権力は、書物を奪おうとする。『返校』の物語は禁書とされた書物を読むサークルの存在を中心にして展開するが、このような「焚書」は、史実として、圧政の下で幾度も繰り返されたことである。そうした歴史について知識があるわけでもないのだが、書物とは、そこにはないものを想像させるものに他ならない。そこには、例えば映像とは大きく異なるものがある。書き言葉は、映像やその他のメディア以上に、読み手によって読まれることを必要とする。映像やその他のメディア以上に、能動的な「読む」ことによってしか成立させることができない、とでも言おうか……うまく表現できているようには思えないが、読まれた言葉はそうして、最も権力に見えにくい形で、浸透していくのだ。あるいは……私たちは言葉を書き写すことによって増やしたり、記憶して、必要なときに再生することができる。それはまさしく『返校』のサークルで行われていたことだが、映像はそうはいかないだろう(しかし、音楽は? 映画中では音楽もまた「禁止」の対象となっていた。そして、登場人物はそのメロディを覚え、ノートに描いた鍵盤で演奏することができた。音楽もまた、言葉のようなところがあるようだ)。

 と、ここまで映像を、どちらかというと言葉(や音楽)に劣るものとして考えてきたが、では、この映画はどうだったか? そこでおもしろいのが、この映画がホラー映画として作られているというところだ。つまり、この映画は、「白色テロ」を、そのままリアリズムによって映像化することをしない――いや、凄惨な拷問など、リアリズムによって描かれたシーンも無論多くあるのだが、しかし弾圧そのものは、多く、「悪夢」――幻想的な暗黒の空間、グロテスクな化け物、血――として、ホラーの文法によって描かれている。私たちは、この映画の大部分において、「白色テロ」を、直接見ることがないのだ。それは幻想的なホラー描写の背後に隠されている。私たちは、彼や彼女に襲いかかる空間や化け物、分身や死者を通して、「白色テロ」を「読む」。

 『返校』がホラー映画なのは、「思想や正義のために死んでいく人々の中で誰かが生き延びて忘却に抗い」“言葉によって”「語らなければならない」という主題を映像で表現する、ある方法なのかもしれない。ホラーとしてはたいして怖くないホラー映画を見、そんなことを考えた。

アラサーになって『グレート・ギャツビー』を読み切る

 

 フィッツジェラルドグレート・ギャツビー村上春樹訳を読み終えた。この小説は高校生か大学生の時にも読もうとして挫折した記憶がある。それは村上春樹訳ではなく『華麗なるギャツビー』だっただろうが、なかなか進まないプロットと、何やら小難しく感傷的な文章になじむことができなかった。しかし、今度は読み切ることができた。そして、大変な傑作であった。批評めいたことを書くわけにもいかない傑作であった。一つにはやはり村上春樹の作家・読書家・翻訳家としての力があるのだろうが、作中、語り手が三十歳の誕生日を迎えるシーンがある。まさに物語の山場、ギャツビーの物語が転落へと向かっていく、そこで語り手は誕生日を迎える。

 

「ニック?」と彼はかさねて尋ねた。

「なんだって?」

「少し飲まないか?」

「結構だ……ふと思い出したんだけど、今日は僕の誕生日だったな」

 僕は三十歳になっていた。目の前にはこれからの十年間が、不穏な道としてまがまがしく延びていた。

 

 「三十歳」という年齢は語り手にいくらかの衝撃を与えたようで、小説の最終盤にも再び言及される。

 

「(中略)私はね、あなたは正直で曲がったところのない人だと見ていた。そしてあなたもそのことを密かに誇りにしていると思っていた」

「僕は三十歳になった」と僕は言った。「自分に嘘をついてそれを名誉と考えるには、五歳ばかり年を取りすぎている」

 

 三十歳。そういえば先日読んだ村上春樹のインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』で、村上は幾度も彼の執筆歴の始まりの年齢(二九歳)の人間の精神の有り様に言及していたが、彼の「三十歳」へのこだわりは、きっと『グレート・ギャツビー』の語り手譲りのものなのだろう。三十歳——私もまた、そのような年齢を迎えつつあるわけだ。あの頃は読み切れなかったこの小説が、今、こうも傑作として立ち現れてくるのは、私の精神性がようやくこの小説の読者に要求される水準に到達したところだということなのかもしれない(しかしまた、フィッツジェラルド二八歳の時にこれが刊行されたというから、やはり恐るべき天才だ)。